宮崎康平氏について

                                所長  川崎 弘

 

 11月を迎えました。皆様、いかがお過ごしでしょうか。お変わりございませんか。

 ようやくセンターも賑わいを取り戻しつつあります。本当にようやくですね。ただ、油断は禁物、第6波とならないよう今後も感染対策を施しながらの事業運営となります。引き続きご協力いただけますようお願い申し上げます。

 さて、久しぶりに読書の話題です。今月号では「おすすめ図書」の順番がまわってきましたので少し古い図書を紹介しました。本の紹介は短文のため、とても書ききれない主人公のモデルとなった宮崎康平氏について「役得」と思いつつお披露目したいと思います。

 宮崎康平氏は1917年、長崎県島原市で宮崎組という土建業を営む家に生まれます。旧制早稲田大学文学部を卒業後の1940年に東宝映画(現在の東宝)へ脚本家として入社します。兄が死去したため、東宝を退社して実家へ戻り1946年2月、家業の取締役社長となります。同年11月には島原鉄道の常務取締役にも就任。しかし稼業の経営は行き詰まり1948年に倒産しました。

 1949年、地方巡幸に伴い昭和天皇の島原来訪、島原鉄道は路盤を強化する必要に迫られ、昼夜を徹した突貫工事が行われました。このときの過労によって、1950年に眼底網膜炎で失明します。しかし、昭和天皇の案内役を務めるため、鉄道のカーブの数を数え、何度も練習し務め上げました。昭和天皇は最後側近に言われるまで、宮崎が盲目だということに気づかなかったということです。同時に当時結婚していた妻が家出します。家出後に一人で子どもを育てた際に歌って聞かせた子守唄が後に「島原の子守唄」として知られるようになります。私はこのいきさつをさだまさしとの対談で知ることとなります。また同年、失明を理由に島原鉄道常務取締役を辞任しました。このとき、会社は宮崎を慰留しましたが、失明した者には仕事はできないと、これを固辞しました。
1956年2月、社長の死去に伴い島原鉄道の強い要請で再び常務取締役に就任します。1957年7月には島原大水害が発生、宮崎は鉄道復旧のため、1949年と同様に陣頭指揮に立ちます。このとき、多数の土器が出土したことから宮崎は古代史の研究に強い興味を示すこととなります。1958年には先妻との離婚が成立し、同時に内縁状態にあった和子と火野葦平媒酌のもと、正式に再婚します。

 1960年には島原鉄道常務取締役を辞任、九州全域から朝鮮半島にまでいたる調査を経て、1965年から文学雑誌・九州文学へ調査結果を連載し始めます。これをまとめ、一冊の本としたのが講談社から1967年に発売された『まぼろしの邪馬台国』です。この書籍はベストセラーとなり学者のレベルにとどまっていた邪馬台国論争を一般にまで広めたとされます。この功績により、同年創設された第1回吉川英治文化賞を受賞しました。なおこの書籍が妻・和子の口述筆記によるものであったことから同賞は夫妻に対して贈られています。

 今回紹介しました城山三郎著『盲人重役』はちょうどこのころ出版されています。「汽笛は響く」という題名でテレビドラマになったのは1978年のことです。
1980年には『まぼろしの邪馬台国』の改訂版『新版 まぼろしの邪馬台国』を著し、併せて今後の邪馬台国研究の予定を公にするものの急逝してしまいました。享年62歳。私が17歳の時でした。大学入試の際、この著書にお世話になったことは以前書かせていただきました。私は宮﨑氏の年齢に近くなりました。それにしてもものすごい生涯でした。この項で書ききれませんでしたが古関裕而氏とも親交があったりとすごい方が郷土にいたものです。

(宮崎氏の生涯にわたる部分はWikipediaを参考としましたことを申し添えます)

 『まぼろしの邪馬台国』もご存じのとおり近年映画化されています。秋の夜長読書にふけるのもいいものです。ただ、残念なことに『まぼろしの邪馬台国』は現在点字図書のみの所蔵です。

多くの皆様に支えられ、私たち職員一同、これからも、これまで以上に皆様に利用していただける施設づくりを目指しますので今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。