「サピエの歴史」(前編) 川崎の主観がほとんど・・・

                                所長  川崎 弘

 

 皆様、いかがお過ごしでしょうか。お変わりございませんか。
 いつも感染予防にご協力いただき感謝申し上げます。相変わらずさまざまなことが起こり落ち着きませんね。よいニュースが欲しいところです。

 さて、これから2回にわたり川崎流「サピエの歴史」を書いてみようと思います。何せいつもいきあたりばったりな内容で申し訳なく思いますので、たまにはまじめに・・・といけばよいのですが。

 サピエのもとは、1988年に日本(にっぽん)IBM社の社会貢献活動ではじまった「IBM点訳ひろば」です。

当時、私は日本(にっぽん)点字図書館にお世話になっていました。副館長だった直居鉄(なおいてつ)氏が中心となり話を進めていました。(「直居さんの道楽だ」などと陰口をたたくものもいたんですよ、ここでめげずに話をまとめたからこそいまのサピエがあるのだと私は信じます。ちなみに直居氏と第4代千葉点字図書館長であり愛光の2代目理事長だった千田米蔵氏とは戦時中、学生時代を通じ深いご縁があったとのことです。)ちょうどコンピューターが点字図書館へ入り始めていた時代です。ワープロ専用機が主流でコンピューターを使う際はノートに書いて予約しなければならない状況でした。複数枚のフロッピーディスクを出し入れしワープロソフトを起動する時代です。それでもAOK(エーオーケイ)音声辞書なども出てひどい音声でしたが音声化も実現していました。

点字製作に関しては昔ながらの点字盤や点字タイプライターが主流で、かなりな労力を使い一部できるというありさまでした。複部数必要な頒布書(出版書)については製版機で亜鉛板やビニール板に打ち込み点字用紙を挟み印刷機でプレスする方法でした。(自動製版技術はまじかに迫っていました。)

このような時代に点字をデータ化して共有しよう、全国へパソコンを配ろうという壮大な計画でした。事務局は点字図書館側に置き、ホスト事務局を日本IBMが担当するという仕組みは、「ないーぶネット」として全国視覚障害者情報提供施設協議会(当時)へ引き継がれる1998年まで続きました。(先行して1996年度から日本ライトハウスへ移管)1991年までに1500台のIBMのパソコンが全国に配布され、11の図書館にプリンティングセンターが設置されました。(千葉もそのひとつでした)今ではあたりまえとなったパソコン点訳の草創期の苦労は言うまでもありません。インターネットなどない時代です。「これからつなぐよ」と電話をかけパソコン通信でデータのやりとりをした時代です。私が千葉でお世話になることになった1991年もこんな感じでした。1993年からIBMの冠がとれ「てんやく広場」となりました。図書の相互貸借で利用していた国会図書館の全国点字図書・録音図書総合目録のデータ化にともない、これを「てんやく広場」で使えないかということからさまざまな議論が交わされ現在のサピエのもとが見えてきました。ちなみに1994年個人会員制度を作った時点の個人会員数は全国で158人でした。(後編へ続く)

多くの皆様に支えられ、私たち職員一同、これからも、これまで以上に皆様に利用していただける施設づくりを目指しますので今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。