沖縄復帰52年
所長 川崎 弘
6月を迎えました。皆様いかがお過ごしでしょうか。お変わりございませんか。
季節は着実に巡り今月下旬には梅雨の時期を迎えようとしています。農作物にとっては大切な時期ですが、うっとうしい季節でもありますね。体調を崩されませんようご自愛ください。
さて、この5月15日で沖縄が本土復帰をしてから52年になりました。私は当時9歳でしたが通貨がドルから円に変わったとか、右側通行が左側通行に変わりバスの乗降扉の位置も変わり大変だというニュースを覚えています。ただ、1972年は札幌冬季オリンピックや千日デパート火災、日本列島改造論の田中角栄内閣誕生などの大きなニュースが目白押しでしたので、長崎にいた私たちにとっても沖縄復帰(沖縄返還)のニュースはそう大きくなかったというのが実感でした。
私が沖縄を意識したのは神奈川県横須賀市の中学に入学した1976年です。ちょうどその年、琉球大学教育学部を卒業した新任教師が着任しました。3年間技術科を学び(当時は男子だけ、女子は家庭科)、おまけに3年時の学級担任でした。「沖縄には就職口がないので集団就職で神奈川にきた」というだけあって、県内に同級生の新任教員が多数いたようでした。彼が大学へ入学した年がちょうど本土復帰の年、さまざまな苦労があったことを聞かせてもらいました。やはり沖縄がよかったのか私たちの卒業後、ほどなくして東京のかりんとう屋の娘さんと結婚し沖縄へ帰り教職を続けました。当時の悪友たちと恩師との関係はいまも続いています。恩師が横須賀を訪ねるたびに誘いが入ります。年取ったもの同士が当時の思い出を語りあっています。恩師にとっても新任地の思いは強かったんでしょうね。最初のうちは会話が成り立ちませんでしたから・・・。
恩師の最後の赴任地は波照間島でした。そこの小中学校の校長が最後です。ちょうどこのとき日本テレビ系列のドラマ「瑠璃の島」の収録が行われ、2005年4月16日から6月18日まで毎週土曜日に放映されましたのでご覧になった方もおられるのではないでしょうか。最後にちょっとだけ本人登場があり・・・ウケましたね。当時を知る私たちには。
すいません。話が長くなりましたが、この本土復帰はあくまでも本土側からの見方です。沖縄の方から見ればなにをいまさらという思いだったようです。終戦から27年もたっていたんですよね。米軍基地がなくなるわけでもなく、生活が豊かになるわけでもなかったと聞きます。恩師は学生時代よくデモに参加し「沖縄を返せ!」とシュプレヒコールをしていたそうです。いったいどこに対してどこから何を返せといっていたんでしょうね。心の叫びの本当のわけは当時のそこにおられた方にしか理解できないのだろうなといまでも思います。恩師は私たちにとっては近い存在ですが、ほかの方々が考えもしないであろうことを私たちに語ってくれた貴重な存在です。
今月もこのような勝手な話題におつきあいくださりありがとうございました。
多くの皆様に支えられ、私たち職員一同、これからも、これまで以上に皆様に利用していただける施設づくりを目指しますので今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。